1444年フィレンツェ
アルノ河畔で 革なめし職人の四男として生まれる。
当時は 芸術家という考え方はまだなく、
画家も他の職業と同様一つの職人仕事と見られてたため
画家を目指す者は、親方の元で修行を積むのが唯一の道だった。
彼は13歳で金細工の工房に弟子入りし、
15歳になると 画家を目指し、フィリッポ・リッピの工房に入る。
画家フィリッポ・リッピは、聖母を描かせたら右に出る者はいないと
評判を取った名人だった。
フィリッポのもとでたたき上げられた彼は
メディチ家の注文を一手に引き受ける名門工房に移る。
当時フィレンツェ一番の画家と言われヴェロッキオの工房で
ヴェロッキオの右腕として働き始めたのである。
14歳の美少年レオナルド・ダ・ヴィンチがこの工房に入門してきた頃、
ボッティチェリは22歳、ヴェロッキオの工房の主役となっていた。
大銀行家としてヨーロッパ全土に絶大な権力をふるい、
ルネサンス芸術をパトロンとして推し進めたメディチ家の当時の家長ロレンツォ・メディチに認められた彼は 25歳で自分の工房を持つ。
「才気煥発で知的に洗練された人物で、悪戯好きの非常に愉快な人」
彼はロレンツォ・メディチと彼が集めた芸術家たちに愛され、
時代の寵児となっていく。
当初古典的な聖書画を描いていた彼の作風は
ルネサンスらしいおおらかで甘美な人間賛美に変わって行き、
代表作 「春・プリマヴェーラ」「ヴィーナスの誕生」が描かれる。
彼の絵はフィレンツェを熱狂させた。
当時非常に珍しかったキャンバスに描かれたヴィーナスを
初めて目にした者たちは 興奮し、息を呑み、
失神する者まで現れたという。
彼に転機が訪れたのは1492年、
ロレンツォ・デ・メディチが42歳の若さでこの世を去ったときだった。
最高の理解者を失ったボッティチェリは
サンマルコ修道院の院長に抜擢されたばかりの
ジロラモ・サヴォナ・ローラに急速に傾倒する。
しかしサヴォナローラの思想は
ルネサンスに浮かれるフィレンツェの人々のため享楽的な生活を批判し
ルネサンス芸術の三分の一を「虚飾の焼却」として燃や尽くしたという
きわめて極端なものだった。
しかしすでに熱狂的な信者となっていたボッティチェリは
嬉々として自らの作品を「虚飾の焼却」に差し出した。
メディチ家の別荘に所蔵されていなければ
あの甘美で華やかな「春」もヴィーナスも失われていたに違いない。
それ以降のボッティチェリの作風は
華やかさもふくよかな喜びも失ってしまう。
サヴォナローラの死後はほとんど絵筆を取らなり、
あれほど陽気でよく食べ、よく笑った男が
着る物にも、食べる物にも関心を示さなくなったこいわれる。
晩年ボッティチェリは貧しさの中で
まるで魂の抜け殻のように二本の杖にすがって
フィレンツェを徘徊していたという。
1510年 生涯独身で親兄弟と同居していた彼は
家族のもとで66歳の生涯を閉じ、
生まれた町の教会の祭壇の下に永眠する。
そのまま長いこと忘れ去られた彼の絵が
イギリスのラファエル前派のメンバーによって再び発見されたのは
19世紀になってからだった。
|