ヨーロッパを代表する磁器の生産地 リモージュに
貧しい仕立て職人の息子として生まれる。
彼が3歳の時、一家はパリへ移住。
職人である父に習い、13歳で陶器の絵付職人の修行を始める。
見習い時代から 卓越した才能を示すが、
陶器の絵付作業の機械化が進んだため失職し、絵の道に転換する。
21歳で国立美術学校に入学。
学友だったモネやシスレーらとフォンテーヌブローの森でスケッチをし、
光の変化を色彩で描くことを試みるようになる
印象派の立ち上げである。
「私が好むのは、その中に入りたいと思わせるような絵だ。」
印象派展は第1回と第3回に出品している。
出品作 は好評を博し、サロンにも入選を果たす。
1880年代初めには、画家として売れ始めるが、
色彩を追求するあまり、輪郭線がはっきりしなくなり、
激しいスランプにおちいる。
新しい道を模索するためにイタリアを旅したとき、
ラファエロの絵に出会う。
ラファエロの絵に深く感銘した彼は
かねてからの恋人であったアリーヌと結婚し
家庭の暖かさを謳い上げるかのようなモチーフへと移行、
様式も輪郭線と色、両方を生かすようになる。
真珠色とも虹色とも言われる時代の到来である。
虹色は女性たちへの讃歌であり、多くの傑作を生んだ。
晩年の20年もの間重いリューマチに悩まされ、
66歳の時にパリの寒さを逃れて家族とともにカーニュに移り住む。
リューマチはひどく、激痛の中 絵筆も握れない状態になるが
家族の献身によって手に筆を縛りつけながらも絵を描き続ける。
しかし愛する家族にも不幸がのしかかる。
73歳のときに第一次世界大戦が始まり、
愛する息子 ピエールとジャンが前線に送られるのである。
次男のジャンは この戦争で大怪我を負い
最愛の妻アリーヌは夫と息子の看病で疲れ果て、
56歳の若さでこの世を去る。
絶望の中、それでも彼の絵には苦しみも悲しみも一切表現されず、
女たちの豊かな肉体が喜びと美しさをもって生き生きと描かれた。
「私にとって一枚の絵は、
愛らしく、楽しくて、美しいものでなければならない。
世の中は不愉快な事が多すぎる。
だからこれ以上、不愉快なものを作る必要がないんだ」
死の前年、彼は最期の旅行に出かける。
向かったのはルーブル美術館だった。
その日、閉館していたはずのルーブルの職員達は、
「絵画の法王」として敬愛したルノアールだけのために
ルーブルの扉を開いた。
彼は幼いころから愛し、何度も通いつめたルーブル美術館で
たった一人で巨匠たちの作品を堪能した。
そしてルーブルに飾られる自分の作品を
自分の目で見ることができた数少ない画家として
その翌年に78歳の生涯を静かに閉じた。
彼の息子ジャン・ルノアールは、
父の独特な光と色彩に関する完成を受け継ぎ、
フランス映画界最高の映画監督としてすばらしい傑作を生み出した。
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