1844年5月21日、板金工ジュリアン・ルソーと妻エレオノールの
第3子としてフランス マイエンヌ地方のラヴァルに生まれる。
25歳からパリ郊外の間接税務局に勤める下級官吏として
パリの入口の門番を務め、
やがて趣味で絵を描き始めた。
1884年ローマ賞受賞者フェリックス.クレマンの推薦を得て、
ルーヴル、リュクサンブール美術館、ヴェルサイユ宮殿や
サン・ジェルマン宮殿で模写することを許可される。
40歳を過ぎてから「アンデパンダン」展に出品をはじめ
ピサロやルダンにその作品を賞賛されるが、
多くの批評家や画商にはまったく認められない。
1893年に退職し、バイオリン教師をしながらアマチュア画家となるが
相変わらず絵は売れず、妻や子供も次々に亡くし、
生活は苦しく辛いものとなる。
しかしどんなに不幸に見舞われていても
その苦しみや悲しみを口にし、
感情をあらわにすることのない穏やかな人だった。
そしてその人柄を表すように
彼の絵に苦痛が生々しく表現されることはなかった。
ただ不思議な存在感と生命力が彼の作品を彩った。
詩人のアルフレッド・ジャリやギョーム・アポリネール、
ピカソやマリー・ローランサン、ブラックら 若い世代の画家達は
彼の絶対的な個性と色彩に目を見張った。
彼らはルソーを 「無意識の天才」「自覚の無い前衛画家」とよんだ。
「この黒は真似できない。」とゴーギャンはいい、
ピカソは4枚のルソーの絵を終生手放すことはなかった。
1908年 彼が64歳のとき、
不遇の天才ルソーの独創性を賛美する若手画家たちが
モンマルトルの“洗濯船”のピカソのアトリエで
伝説の「ピカソの夜会」を開く。
主賓として招かれたルソーは、
彼は得意のヴァイオリンを手に
終始夢見るように穏やかに微笑んでいたという。
1910年 9月2日、敗血症のためネッカー病院で死去。
バニューに葬られ、その後友人たちによって故郷ラヴァルに移された。
彼の葬儀には7人の友達が集まった。
ポール・シニャック、ロべール・ドローネーらである。
墓石には友人の詩人アポリネールの詩が彫られている。
「優しいルソーよ、聞こえるかい。
ぼくらは君に会いにきたんだ。
ぼくらの荷物は、 天国の門で無税で通してくれ。
きみに筆と絵具とカンバスをもって来たんだ。
永遠の真実の光の中で星たちの顔を描いて、
きみが聖なる休暇を過ごせるように」
不遇のまま亡くなったルソーの傑作の数々は
今、彼の愛したルーブルの一角で見事な存在感を放っている。
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