パリに生まれる。
早くに両親を亡くし、叔父たちに育てられた。
J・ビアンに師事し、1774年ローマ賞を得て、
翌年から5年間イタリアに留学。
この時期に、『ホラティウス兄弟の誓い』や『ソクラテスの死』など、
古代を主題とした大作を多く描き、
「理想美」に最も近いのが古代芸術であるという考えに傾き、
次第に簡潔で厳格な新古典主義へと移行していった。
過激な革命派としても知られ、革命期にはジャコパン派としても活動し、
『マラーの死』などを描いた。
中でも『処刑場に向かうマリー・アントワネット』のスケッチは素晴らしく、
短い間に書き上げたデッサンであるにもかかわらず、
王妃の威厳と深い悲しみが余すところなく表現され、
見る者を感動させる。
しかし、政治に大きく関わり、
恐怖政治の美術行政を担う彼の過激な思想は妻をもおびえさせ、
ついに妻は彼のもとを去る。
妻の不安は的中する。
行き過ぎた恐怖政治は「テルミドールの反動」で破られ、
ロベスピエールらが捕られるなか、
ダヴィッドも処刑の対象としてリュクサンブール宮へ幽閉された。
離婚したはずの妻がこれを深く悲しみ、
八方手を尽くして何とか彼を救い出したことで彼は九死に一生を得る。
しかし、もう政治にはかかわらないでほしいと願う妻の願いもむなしく、
彼はナポレオンと出会い、魅了されてしまう。
彼は ナポレオンの主席宮廷画家となり、
ルーブル宮殿を美術館にしようと考えたナポレオンのために
『ナポレオンの戴冠式』など数多くの記念碑的な絵を描いた。
しかし、 画壇に君臨しアングル、グロなどの弟子を育成する日々は
ナポレオン失脚と同時に終わりを告げる。
ルイ16世の死刑に賛成票を投じたことを 当局より追及され、
国外追放となり、ブリュセルに亡命することになるのである。
ここで 彼は古典に立ち戻り、
若干の肖像画や神話に題を取った名画
「ヴィーナスと三美神から武装を解かれるマルス」を制作した。
1825年にかつての栄光を取り戻さないまま亡命の地で没したが、
このブリュッセルの小さな村での生活は
彼が初めて味わう安息の日々だったとも伝えられている。 |