1834年パリの銀行家の家に生まれた。
父の希望で法律を学ぶが、絵の道に進むことを決意し、
国立美術学校で伝統的な絵画の勉強を始める。
その後イタリアに留学してルネッサンスの大家の作品群に触れ、
大きな影響を受けて アカデミックな絵画を描くようになる。
1862年マネと出会ったことから印象派にも興味を持つようになる。
これ以降、サロンに出品するかたわら
印象派展にも多くの作品を出展し始める。
しかし彼の画風は印象派の画風とはかなり異なっており、
印象派の他の画家が絵の命とした太陽よりも
彼はアトリエや屋内に当時取り入れられ始めた人工的な照明を描き
印象派の主題である風景画もほとんど描かずに
日常生活の中に現れる、さり気ない一瞬の動きを捉えた
人物画を好んだ。
デッサンにこだわり続けた画家として知られる。
「目に見えるものを写し出すというのは大変結構なことだ。
だが、もはや記憶の中でしか見ることのできぬものをデッサンすることは
もっと良いことだ」
道行くパリジェンヌが振り返るようなハンサムであったにもかかわらず
彼は一度の結婚もせず、浮名を流すこともなかった。
ただ毎日 デッサン帳だけを連れにして夜のパリを歩き、
様々な階層の人々の無防備な姿をあらゆる角度からスケッチした。
そしてアトリエに戻ってから、記憶を元にじっくり時間をかけて
断片的なデッサンを一つの絵の中に再構築しなおした。
彼はアングルの構図や伝統的な手法を熟知し、
写真技術や日本の浮世絵版画などの新しい知識を貪欲に仕入れながら
自分の絵の構図を研ぎ澄まし、多くのデッサンをこなして
現代生活の様相を鋭いまなざしで捉え、
それらのテーマを確かな技術で描きあげ、
代表作群「踊り子」にみられる彼独自の世界を作った。
36歳のときに普仏戦争に志願して従軍し、目を痛めてしまう。
それからは彼の視力はみるみる落ちて行く。
しかしそれに反比例するかのように
彼の描く線は大胆に、その色彩は鮮やかになっていった。
50歳を超えたドガは、筆先すら見えない視力で
指に絵の具を塗って描いていたいう。
おぼろげな輪郭と豊かな色彩で
彼の記憶の中の仕草を追うかのような作品は
他の画家に衝撃を与える。
マチスやルノアールは彼の絵を絶賛し、自ら買い求めた。
そしてついにほとんど目が見えなくなっても、
彼は創作を続ける。
記憶の中の踊り子たちの彫刻を作り始めるのである。
「私が死んでも、弔辞は必要ない。
ただ、デッサンを愛していたという言葉とともに葬ってほしい。」
1917年9月、87歳でなくなり、モンマルトルに埋葬された。
怒りっぽくて人に嫌われやすい気性だった彼の死に顔には
やさしく静かな微笑みが浮かんでいたという。
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