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■作品解説
2月革命の年である1848年6月7日、
パリのノートル=ダム・ド・ロレット街で生まれる。
本名はEugene Henri Paul Gauguin。
父は共和系のジャーナリストで、革命後の新政府による弾圧を恐れ
生後すぐに一家で南米ペルーのリマに亡命した。
しかし父はポールが1歳になる前に急死してしまう。
一家はポールが7歳になるまでの数年をペルーで過ごし、
1855年祖父の死亡に伴い帰国する。
帰国後、オルレアンの叔父のもとから神学学校に通った後、
17歳の時に航海士として南米やインドを訪れる。
この頃には母も亡くなり、彼は海軍に入隊、普仏戦争に参加した。
その後ゴーギャンは株式仲買人となり、
デンマーク出身の女性メットと結婚。
ごく普通の勤め人となった彼は、
人に勧められて23歳頃から趣味として絵を描き始める。
1882年金融恐慌があり、ゴーギャンは株式の仕事を断念。
翌年には勤めを辞め、画業に専心することになる。
彼は妻の実家のあるコペンハーゲンに移住し、
画家としての成功を夢見て個展を開くものの大失敗し、
妻と別れて一人で帰国した彼は、
次はブルターニュ地方のポン=タヴェン派の中心として
画家仲間と共に貧しいながらも絵の世界に没頭する。
1888年、ゴッホに呼ばれ、アルルで生活をはじめる。
しかし、二人の情熱は互いに相容れないものだった。
まもなく有名なゴッホの耳切事件が起こり、
ゴーギャンは一人パリに戻ることになる。
傷ついたゴーギャンが楽園を求め、
南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは
1891年4月のことであった。
現地の13歳の少女を愛人として絵を描き続けては見るものの、
やはりタヒチでも貧困や病気の苦痛は去らず、
彼は1893年フランスに戻ることになる。
しかしパリでも幸せは訪れなかった。
叔父の遺産を受け継いで パリにアトリエを構えたものの、
絵は売れず、愛人にも去られ、パリに居場所を失った彼は、
1895年にはふたたびタヒチに渡航した。
再びタヒチで、次は14歳の少女を愛人とし、
心機一転して絵に取り組もうとした彼だったが、
貧しさと病苦に苦しみは彼を責めさいなみ続け、
孤独の中ついに自殺を決意する。
そして1897年、遺書として描かれた大作
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を完成させ、自殺を図った。
運よく一命をとりとめた彼は、
タヒチに次第に浸透してくる西洋文化を嫌い、
1901年タヒチから1500km北、マルキーズ諸島ヒヴァ・オア島に
渡った。
そしてここが彼の最期の住処となる。
1903年5月8日、不遇のうちに死去。
現地で埋葬された。
なお、サマセット・モームの代表作「月と六ペンス」は
ゴーギャンをモデルにしたといわている。
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Hail Mary |
Ferme a Arles |
Chemin a'Papeete |
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Femme Au Mango |
la Orana Maria |
Jeune Fille a L'eventail |
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Two Tahitian Women with Mangos |
Farm in Brittany |
Tahitian Nude with
Seated Back |
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Portrait of an Old Man with a Stick |
Man Picking Fruit from a Tree |
Self Portrait |
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Girl with fan |
Annah the Javanese |
Nafea Faaipoipo |
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The Man with an Axe |
The yellow Christ |
Nafea Faaipoipo |
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われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか |
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