1814年シェルブール港近郊の寒村グリュシーの農家に生まれる。
農家といっても、格式のある家柄であり、家には本があふれ、
ミレーも、学問一般に優れた。
しかし中でも絵の才能は突出しており、周囲を驚かせた。
そのため、跡取り息子であったにもかかわらず、
家族は彼の才能を信じ、絵の道に進むことを応援した。
19歳でシェルブールの肖像画家に師事、
21歳になるとシェルブール市より奨学金を得て、
パリのポール・ドラロシュのアトリエに入門する。
しかし、せっかくのパリでの修業にもかかわらず、
師との折り合いは悪く、華やかな都会の生活にもなじめなかった。
画家仲間は彼を『森の男』と呼び、傷ついた彼は内にこもっていく。
彼は毎日ルーヴル美術館に通い、独学で絵を学び始める。
絵は売れず、生活のために風俗画を描き、
仲間に馬鹿にされる日々には 嫌気が差していた。
さらに同じシェルブール生まれの愛妻ポーリーヌが
貧困の中 結核で死去。
不幸のどん底にあったミレーは 生涯にわたってよき理解者となった
2番目の妻カトリーヌ・ルメールと 出会い、一緒に暮らし始める。
貧しい農家生まれの家政婦であった彼女との結婚は許されなかったが
温かい家庭の中で、本当に自分の描きたい絵に没頭し始める。
そして彼はドーミエの写実的な作品に共鳴し、
大きな転換期をむかえる。
農民の働く姿を写実的に描くという、絵画史上まったく新しい作風を
作り始めたのである。
しかし、1848年に発表した「箕をふるう人」は
ミレーの思惑とはまったく異なるところで評価されてしまう。
ちょうどその年に起こった2月革命の混乱と熱狂の中、
この作品は労働者や農民の声を代表する革命画として注目を集め、
当時の共和政府の買い上げとなって革命のシンボルとされたのである。
しかしミレーにとっては血なまぐさい政治や革命は苦痛でしかなかった。
さらに翌年からパリにはコレラが大流行し始める。
ミレーは、家族とともにパリを捨て、バルビゾン村に移り住む。
最初はほんの数日滞在するつもりだったということだが、
彼は生まれ育った町のようなこの村で癒され、
自らもここで大地を耕しながら 農村の暮らしを描き始める。
以降、彼は 「種まく人」や「落穂拾い」など、次々と傑作を描く。
貧しい農民の働く姿は、いつも賛否両論となった。
大都会のパリの批評家たちには醜悪に写り、酷評されることもあった。
しかし彼は信念を持って 自分が美しいと思う「労働」の姿を描き続けた
ようやくミレーが大成功をおさめたのは彼が50歳になってからだった。
「羊飼いの少女」がサロンで絶賛を受けたのである。
それ以降、作品の評価が急激に上昇する。
1875年60歳を迎えたばかりのとき
彼はカトリーヌと正式に結婚した。
そして同年 1月20日にこの世を去った。
「私の死は早すぎる。やっと自然や芸術が判りかけてきたのに」
2年間の闘病生活の果ての死であった。
今 彼はシャイイの墓地に
一緒にバルビゾンで暮らした親友 テオドール・ルソーと
並んで眠っている。
当時の自宅兼アトリエは今も記念館として残されている。
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