1860年 7月24日 現在のチェコにあるのどかな田園地方
モラヴィアのイヴァンチッツェで生まれる。
裁判所の廷吏を父にもち、家は貧しい生活の中でも
幼いころより画家としての才能を発揮したものの成績は振るわず、
中学では落第を繰り返し、中退。
中退後父親の勧めで、裁判所の書記として見習いをはじめたが、
ここでも被告人の似顔絵など絵ばかり描き続けていた。
そんな生活に嫌気がさしていた彼は19才で祖国を離れ
画家を目指し、ウィーンへ向かった。
ウィーンやミュンヘンで絵画の勉強をつんだ彼は
1988年についにパリへと向かう。
パリでの生活は当初非常に苦しく、食べ物にも事欠く日々の中、
挿絵やポスターなどあらゆる仕事を請けながら食いつなぎ、
ついに1894年に転機を迎える。
クリスマスにたった一人で小さな印刷工房にいた彼に
1月4日公演のポスターの製作依頼の電話がかかる。
演目は「ジスモンダ」 、主演は大女優サラ・ベルナール。
彼は数日間でこの大女優を美しく神秘的にポスターに描き切り、
その優美で落ち着いた色彩と繊細な曲線はパリ中で大評判となった。
この一枚を皮切りに、彼はポスターや絵葉書をはじめ
室内装飾や宝飾品、舞台衣装などあらゆる装飾に才能を発揮し
一挙にアール・ヌーボーの巨匠としての地位を築き上げた。
パリはけばけばしい色彩や人工的な直線にかわって
彼の優雅で神秘的なスタイルに染まり、
アールヌーボー全盛の時代が訪れた。
歴史に名高い1900年のパリ万国博覧会では
ボスニア、ヘルツェゴヴィナ館の装飾を担当し、
彼の名声は世界的なものとなる。
1906年にプラハでマルシュカ・シティロヴァと結婚した彼は、
この23才年下の新妻と共にアメリカに渡り、
ここでも大絶賛を浴びたのである。
こうしてこの上ない名声と幸せを手に入れたものの、
ミュシャの心には、大国に支配され、母国語を使うことすら
許されない祖国チェコへの思いが重くのしかかっていた。
1910年には彼は家族とともに祖国チェコのプラハに戻り、
スラブ民族の苦難の歴史を描く連作「スラブ叙事詩」をはじめ
民族的主題とじっくり取り組んだ作品の製作を始める。
17年の歳月をかけ、20点もの作品数に及ぶ「スラブ叙事詩」は
祖国チェコのプラハ市にその全作品が無償で寄贈された。
彼の作品は時代遅れとして揶揄されることもあったものの、
彼は精力的に新生チェコスロヴァキア共和国のために
新しい国章、郵便切手や貨幣などをほとんど無償でデザインし、
やがてその芸術性に対する再理解が広まっていった。
しかし、祖国の苦難の歴史は続き、
1939年にはドイツのチェコ侵攻が始まる。
ミュシャはゲシュタポに逮捕され、ひどい尋問を受けることになる。
彼はこの経験が元で健康を害し、
同年7月14日に愛する祖国チェコのプラハにて生涯を終える。
その亡骸は伝説の王女リブシェが住んだといわれる栄光の地、
ヴィシェフラッドに埋葬され、葬儀には10万人の市民が参列した。
そしてその墓前には今日でも多くのリースや花が手向けられ、
今もなおミュシャはプラハの誇る最高の芸術家として
市民の敬愛を集め続けている。
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